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建築家として、地域の課題を見つめ、自ら行動を起こすこと。

CREEKS取締役・広瀬 毅インタビュー

投稿日:2018.11.07

「地域から社会を変えよう。」というタグラインを掲げ、「もっと自由に自分らしく生きる」を行動に移す人の集まりとなることをめざしている〈CREEKS〉。広瀬さんは取締役であると同時に、建築家としても活躍しています。そんな広瀬さんが思う自分らしい働き方や暮らし、そして地域とのつながりを、これまでの生き方や仕事も踏まえながら、うかがいました。

刺激的な人々との出会いから建築家の道へ

ーー石川県金沢市出身で、現在は長野市を拠点とする広瀬さん。まずは建築家をめざしたきっかけや長野市に移住した経緯を教えてください。

「実家が工務店なので昔から建築分野に進もうと思っていましたが、大学入学時はゼネコンに就職するかな、くらいの気持ちでした。でも、意匠系建築が学べる大学で、建築家を志す面白い先輩たちと話す機会が多かったこと、そして非常勤講師として設計製図を教えてくれていた三沢浩さんとの出会いが建築家をめざすきっかけになりました。三沢さんは長野出身で、蔵春閣を設計した建築家です。その三沢さんが授業の後にボランティアで膨大に持っている世界中の建物のスライドを見せながらレクチャーしてくれていたんですが、設計好きな学生が集まっていて、すごく面白かった。それが設計の仕事をしようと思った直接のきっかけでしたね。とはいえ、僕はあまりいい学生ではなく、展覧会と映画に行きまくっていて勉強もろくにやっていなかったので、実は留年もしながら卒業して、就職したのが父のいとこがやっていた長野市の設計事務所でした」

ーー県外の大学だったのに、当時から長野に縁があったのですね。設計事務所でどのような仕事を経て、独立に至ったのでしょうか。

「ちょうどバブル期に入る頃に就職したので、入社した翌年から一気に景気がよくなって、初めて手がけた設計も〈しまんりょ小路〉の〈平和ぽえむ街〉だったりと、最初から大きな商業施設やマンションなど面白い仕事をやっていましたね。ちなみに〈平和ぽえむ街〉の地下には、かつて一斉を風靡したディスコ〈マハラジャ長野店〉があったんですよ(笑)。こうして設計事務所は従業員も増えたんですが、1998年の長野オリンピックの終了とともに建築業界はかなり厳しくなって、うちの事務所もご多分に漏れず苦しい状況になりました。そこで、『そろそろ独立すれば』と会社から言われたこともあって、13年間働いた会社を辞めて独立したんです。37歳の時でした。今年でちょうど20年が経ちますね」

ーー急に独立することになり、不安などはなかったのでしょうか。また、厳しくなった建築業界で仕事は順調に進んだのでしょうか。

「もともといつか独立するつもりはありましたが、会社に勤めて普通に働いている時点では長野で独立するイメージをもっていなかったので、意識して人のつながりをつくってきてはいなかったんです。なので、会社を辞めて事務所登録をする半年の間に、独立の挨拶を兼ねて“知り合い100人に会う”というミッションを自分に課しました。それが縁となって、スタート時には住宅2軒と、その後もお付き合いが続く建設会社からの仕事をいただけ、独立3年目の2001年には自宅ではなく善光寺下に事務所を構えるようになりました」

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